三木城

別名 釜山城
    別所城
付近住所 三木市上の丸町 現在 上の丸公園
2004/4/24 碑・案内板アリ 日本城郭大系


別所氏

三木城は、室町時代の十五世紀後半に別所則治によって築かれ、以後別所氏の居城となりました。天文78年(15381539)に山陰の戦国大名尼子詮久(晴久)、天文23年(1544)には三好長逸や三田の有馬氏に攻められましたが、落城は免れています。天正6年(1578)五代目城主別所長治のとき、織田信長の家臣羽柴(豊臣)秀吉の軍に包囲され、一年八ヶ月に及ぶ兵糧攻めに遭い、天正8年(1580117日、城主一族は領民の命を救うために自刃して三木城を開城しました。その後は、羽柴秀吉はじめ家臣の杉原氏・中川氏などが城主として次々と入れ替わりました。江戸時代になって、元和2年(1616)小笠原忠真を領主とする明石藩に編入され、元和3年(1617)に幕府による一国一城令によって廃城となりました。このとき、三木城の資材は明石城の建築資材に使用されたと伝えられています。当時の城の規模は、本丸(上の丸公園)、二の丸(図書館・美術館周辺)、新城・鷹ノ尾城(市役所周辺)などからなり、東播磨随一の要害でした。また南に位置する雲龍寺周辺も三木城の一角であったと考えられています。この雲龍寺には別所長治夫婦の首塚があり、毎年117日の命日には、長治公を偲んで法要がおこなわれ、兵糧攻めによる飢えから、籠城した兵士が壁土の藁を食べたという言い伝えに習って藁に見立てたうどんが振舞われます。

三木城別所氏釜山城の当時の復元図によせて
室町時代の末期は、世はまさに戦国の時代でした。ときは天正6年の春より天正8年の正月にわたり、ここ東播の平野にも血の川しかばねの山を築く大修羅場が展開され、攻めるのは当代随一の知将、羽柴秀吉であり、守りは東播八郡の豪族、その名も高い青年城主、別所長治でした。織田信長が天下統一の大業を企て、その命を受け中国征伐の総帥となった秀吉は、濃尾の大軍を率いて攻めてきました。別所方は勇猛な中国武士を督励してこれに当たり淡河、加佐、大村などで奮戦しました。東播に八郡を領有し、さらに摂津の一部を有し、出城と称するもの三十余りを構えまたは、トリデなど百に余るその一族や旗がしらをもって戦った別所長治もついに城を包囲されて飲む水、食料も絶え、軍馬まで喰べつくし、ついに三木城籠城実に22ヶ月、長治は義を守った家来のために、また哀れな婦女子や、庶民を思い一族兄弟は天正8117日悲しくも自害しました。今の世も三木市民は、当時の別所公の遺徳を讃え、毎年ご冥福を祈り別所公奉賛会では盛大な祭典を、天守跡にて催して別所公一族の冥福を祈っております。

  
別所長治公 辞世の碑                    別所長治公像